あの夜

あの地震から一年。
3/11(金)、私は会社で、来週委員会が開催される仕事の資料を必死で作成していた。委員会資料づくりの後は報告書だ。納品まであと20日弱。社内は、年度末特有のピリピリとした空気に包まれていて、誰もが必死に仕事をしていた。14:46頃、揺れを感じる。あちこちで地震だと言う声が上がる。揺れはどんどん強くなり、「これ、やばいんじゃないの」という誰かの声が聞こえ、直後に「地震です。みなさん机の下などに隠れてください」と社内放送が流れた。強い揺れの中、私が机の下から見たのは、後ろの席の女性の先輩の机の上に置いてあった小さな水槽が、ザッバン、ザッバンと周囲に水を撒き散らしている様子だった。揺れはかなり長く感じられて、書棚やロッカーの扉が揺れに合わせてガシャン、ガシャンと音を立てていた。しばらくして揺れがおさまると、社内放送で建物の外に出るように指示があった。うちの会社のあるビルは、正面玄関のある道路に面した側の一面がガラス張りになっているため、ガラスの破損・落下の危険があり、皆離れるようにと指示を受けた。全員の無事を確認すると、社内に戻り、それぞれが客先に電話をかけ無事を確認していた。九州にいる頃はあまり地震がなかったけど、東京に出てきてからはちょくちょく地震があることを知った。これまでで、一番の地震だった。身の回りが多少落ち着くと、携帯のワンセグでニュースを見た。東北の太平洋側を中心に大津波警報が出ている。津波のことなんて考えてもみなかった。ワンセグをつけたまま、先輩の指示により皆で社内の片付け作業を始めるが、余震が連続して起きていたため、片付けは後回しにして、倒れてきたら危険なものを移動する作業をした。ある程度作業が終わると、ラジオやワンセグをつけて、それぞれ仕事を再開をした。私は妹や彼氏に無事を確認するためのメールを送った。電話もかけたが通じなかった。誰かが津波だ!と叫んだ。ワンセグを見てみると、そこには津波に押し流される車の映像が流れていた。すごい映像だった。うわーっと思った。その後、原発の情報。電車は各線運転見合わせで動いていないという。私は自転車通勤だから大丈夫だが、電車通勤の人たちは、会社で夜を明かすことになった。会社に泊まる人たちのため、食糧の買い出し部隊に指名され数人でスーパーに向かった。非日常になぜかわくわくしていた。買い出しを終え戻ると、次の余震に備えて会社のサーバーを落とすため、今日は皆仕事ができない状態だった。私は自分の家が心配なので帰宅した。世田谷通りに出ると、歩道はたくさんの人であふれていた。スーツ姿の人が多い。電車を諦め歩いて帰る人たちだった。アパートに戻り、コンビニに食糧を買いに行く。近所のコンビニはすでに品薄状態だった。妹とも彼氏とも全く連絡がとれなかったが、実家の母とは連絡が取れた。妹は地震発生当時、企業説明会のため横浜にいた。今日は電車が動かないため、横浜アリーナの避難所で夜を明かすという。スーツ姿で毛布にくるまる妹の姿が想像され、胸が痛くなった。大丈夫だろうか。帰宅し、前日に作って冷凍していたおにぎりを食べる。ガスを復旧させて、シャワーも浴びた。彼氏は今どこで何をしているのだろう。無事に帰れただろうか。うちにはテレビがなかったので、ニコニコ生放送NHKニュースを見ていた。これが後々も非常に役に立った。20時ごろ、チャイムがなる。表に出てみると、スーツ姿の彼氏が立っていた。新宿から家まで歩いて帰ろうとしたらしいが、途中で道に迷ったため諦めてうちに来たという。3半時頃に会社を出て、ずっと歩いていたそうだ。無事でよかった、と安心した。布団に入り、二人でニコ生のNHKを見た。余震は続いている。その日は、お互い抱き合うようにして寝た。パソコンはつけっぱなしにして、ずっとニコ生のNHKを流していた。余震のたびにあの音が流れて目が覚める。心臓に悪い。結局あまり寝れなかった。真っ暗な気仙沼が燃えている映像が流れていた。日本の終焉を感じていた。
あれからしばらく、買い占め騒動や、輪番停電、水道水から放射性物質が検出されるなどで、東京は混乱していた。歴史の重大な一場面に立ち会ったんだと思う。その後、同級生が津波で行方不明になったと連絡があったりした。無事で生存していると知った時は本当に安心した。いろいろあった一年だった。地震津波原発事故の被害に遭われた方々。まだ続いている。以上、あの夜を忘れないためにここに書いておく。